レッスン3
イエス†キリストは誰?

「聖霊の導きがありますよう」などと祈ってからルカ1章〜3章、マタイ2章、ヨハネ1章〜5章、マタイ26章〜28章を素直な心構えで読みましょう。(新改訳の新約96〜104ページ、2〜3ページ、157〜168ページ、49〜58ページ。)

イエス・キリストは100%人間です!

ルカ1章27節から→「この少女は、ダベデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」 天使がマリヤに現れて「あなたはみごもって、男の子を産みます。 名をイエスとつけなさい。」〜「そこでマリヤは御使いに言った。 『どうしてそのようなことになりえましょう。 私はまだ男の人を知りませんのに。』 御使いは答えて言った。 『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。 それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』」 こうしてマリヤはセックス無しで子供ができた。 この事は理屈で分かるものではない。 実験で再現できない。 ただ書いてる通り信じるか、でたらめと思って捨てるか、受け止め方ははっきり分かれている。 でも人間が誰もいなかった天地創造の時と違って、この出来事は人間と深く絡んでいる。 証人があって、歴史になっている。 @婚約者のヨセフは、マリヤに「できちゃった」と言われた時、どの心境だったかな?

ローマ皇帝アウグストの勅令で、ヨセフとマリヤが住民登録のため故郷のベツレヘムに帰った。 そこで「男子の初子を産んだ。 それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。 宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」 この二人はかなり貧乏だったらしい。 当時の習慣に従って、イエスを布に巻いた。 そして天使がこの子供について、「聖なる者、神の子と呼ばれます」と言った事で、この世の偉い人、せめて聖書を調べて救い主の出現を願ってたイスラエルの先生たちが、大変喜んだはずでしょう。 でも彼らは人の心を清くして、神に導いてくれる救い主より、イスラエルを占領したローマの軍隊を打ち砕ける者を望んだ。 しかし、神の子の誕生が完全に無視されたわけではない。

二つのグループが拝みに訪れた。 一つは東方、(たぶんインドとか中国の者だったけど、大和人だったかも!)から来た博士たちだった。 聖書に書いてる預言で、救い主の誕生はもうすぐ起こると分かって、切に拝みたがっていた。 そして、しるしの星を見たら、長い旅に出掛け、イエスを見つけ、高価なプレゼントをあげた。 聖書が聖霊によって書かれ、「守っている」と言ってたイスラエルの指導者が信じなかったため、神様が心の素直な外国人を通して、息子のイエスに栄光を与え、生活を支えた。

一方のグループは対照的で、シンプルな羊飼いたちだった。 夜、突然、天使が現れて言った、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。 この方こそ主キリストです」ルカ2:11。 その時、「天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。 『いと高き所に、栄光が、神にあるように。 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように』」と聞いてた羊飼いはたちまち捜し出した。 このように天使と色々な人がこの赤ちゃんこそ待ち望まれてきた世の救い主であると告げ、 聞いてた人々を驚かせた。 この話は真実で、歴史です。 Aイエス・キリストはいつ生まれた?

イエスは男の子だからユダヤ教に従って、八日目、割礼を受けた。 長男は皆、主に聖別されたため、神殿で儀式を行なわなければならないので、イエスもエルサレム市に連れて行かれた。 そこの宮で二人の献身な人に出会って、二人ともこの赤ちゃんについて色々と預言した。 それを聞いてた両親は再びびっくりした。

すぐ大変な事が起こった。 王は怒って、新しい王(イエス)を殺そうとした。 「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき」マタイ2:14。 何年後、子供の命を付け狙ってた王が死んだと聞いたヨセフは、ナザレという町に行って住んだ。 このナザレはその地方で「悪な町」として有名だった。 「父」と呼ばれた人が大工さんで、イエスも大人になってから30才まで同じ仕事に就いていた。

赤ちゃんの時から30才になるまで、イエスについて書かれてる事は一つしかない。 ユダヤ教の上では子供が自分の行動の責任を負える年齢は12才という決まりがあった。 イエスが「成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。 神の恵みがその上にあった」ルカ2:40。 12才になって、両親と一緒に宗教的な祭りに出るため首都、エルサレム、に上った。 祭りの楽しさのあまりか何かのせいで気を緩めた両親は、気付くと、子供のイエスを見当たらない。 「三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。 見つけると母親マリヤは息子をしかり始めた。 イエスの答えは穏やかで、意味深い、「どうして私をお捜しになったのですか。 私が必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」。 イエスが両親から逃げたじゃなく、両親が責任を怠ったので息子イエスを見失ってしまった。 「自分の父の家」って言ったイエスは、もう、この年齢で、自分の父が神様である事を知っていた。 イエスは聖書をよく読んだので学校へ通わなくても知恵が優れた。

イエスの親戚、ヨハネが、荒野で「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ(全身を水面下にする洗礼)を説いた」ルカ3:3。 預言されたキリスト(救い主)の到来は間近と解釈してた民衆は、「ヨハネがキリストじゃないか?」、と考え巡らしたところ、本人が「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」ときっぱり言った。 イエスもバプテスマを受けるためヨハネのところにやって来た。 罪を一度も犯さなかったけど、私たちの模範としてバプテスマを受けた。 「そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。 また、天から声がした。 『あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ』」。 イエスに力を付けるため、そして周りの人が信じるようになるために神様がこのしるしを与えた。 バプテスマを境目に、イエスは大工の仕事を辞め、神の言葉を教え始めた。 約30才だった。

ルカ3章23節からイエスの家系図はいちいち記されている。 さかのぼって、38節にやっと「アダムの子、このアダムは神の子である」にたどり着く。 イエスが体を持ってない、ただの霊、と昔流行ってた説はこの家系図で否定できる。 食べたり、飲んだり、泣いたり、喜んだりして、私達の兄弟と呼ばれても恥と思わなかった程、イエスは皆と変わらない。 いや、二つの点が違う→イエスの直接の父は神様の霊、それに、他の人間と違って罪を犯した経験がない。 B自分は罪を犯した事があると思う?

イエスは水の上を歩いたり(マタイ14:25)、5個のパンと2匹の魚で5,000人以上の人を食べさせたり(マタイ14:17〜21)、死んだ人をよみがえらせたり(ヨハネ11章)して、人間のわざを超えた事をやったので、「人間じゃない」と言える? 映画みたいな「スーパーマンだ!」と片付けたくなるかも知れないけど、神を信じ、祈り求めるなら、何でも与えられるという約束が書かれてるから、信仰があれば誰でも奇跡を起こす事ができる。 イエス・キリストがやってた奇跡よりすごい事までできる!

イエス・キリストは100%人間です。 人間でありながら神様です。 イエスは神様?!

イエス・キリストは100%神様です!

ヨハネ1章、「初めに、ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。 造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」。 14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 私たちはこの方の栄光を見た。 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。 この方は恵みとまことに満ちておられた」。 この「ことば、光、神のひとり子」は誰か、もう、お分かりでしょう。 更に「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです」と17節にはっきりと名前までが書かれている。

ここに奥深い知恵がある。 「ことば」はイエス。 「ことば」は神。 だとすると、イエスは神です! でも待て。 「すべてのものは、この方によって造られた」って書いてるでしょう? 最初のレッスンに「神様が全部のものを造った・・・」。 そう。 子供として生まれた約3,800年前、イエス・キリストは地球、海、空、陸、太陽、星、動物、人間、み〜んな創った。 創世記に何回も「神が言って、そしてそういうふうになった」のような事が書かれているよね。 この言葉にすごい力がある。 全宇宙がそれによって支えられているほど。 イエスはこういう者だから、彼には不可能な事はありえない。

最初のレッスンにちょっとだけ触れた事の深い意味をここで考えたい。 創世記1章26節にこう書かれてる、「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう』」。 「われわれ」は何人を指している? 一人以上ですよね。 ヨハネが書いてた「神とともにあった・・・神であった」のところに矛盾がない。 いつも聖書を読む前に「聖霊が導いてくれるよう」などと祈る時に聖霊の助けを頼むんですよね。 この「聖霊」とは? 創世記1章2節→「神の霊は水の上を動いていた」。 マタイ28章19節にイエスが弟子に「父と子と聖霊との名によって・・・」と命じ、バプテスマのやりかたを教えた。 ヨハネが書いた「ひとり子」はイエスを指してるなら、その子の父は誰? また神です。 ヨハネの福音書に、こういうような事がいっぱい書かれてるからここでは詳しく調べない。 まとめると、神様は三つの存在→父と子と霊で、自分の形に似て人間を創って、地位にはそれぞれ差があっても、役割や働きはそれぞれ違っても、三人とも神様です。

聖書の中にイエスがよく「神の子」と「人の子」と呼ばれているのはなぜ? それは彼には両方の性質が宿っているから。 ヨハネ1:29「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。 『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』」。 ユダヤ教では、罪を犯したら傷のない子羊を神にささげなければ、罪の赦しはまずない。 罪を犯した人が自分の手で子羊の命を取って、血を流した。 この儀式でイエスの死を投影して、預言した。 C聖書にイエスを指してる他の言い方がありますか。 自分は「人の子」と51節にイエスが言った、「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」。 自分は天国と地球をつなぐ掛け橋になっている事が分かった。

イエス・キリストは100%人間と100%神様両方!

ヨハネ2章にイエスの最初の奇跡の成り立ちが記されている。 イエスには弟子があった。 イエスと彼らは仕事、家族、全部を捨てて、活動した。 山奥の誰も通らない修道院みたいなところにとどまる事をしないで、積極的に人と接触する機会を作る。 そしてある時に結婚式に招かれた。 母の依頼に対してイエスの答えは失礼に聞こえるけど、母には不信のところがあると分かって、イエスは責めたでしょう。 それでも「自分の栄光を現された。 それで、弟子たちはイエスを信じた」11節。 イエスは自分のために奇跡をしなかった。 病気を治すため、周りの人の信仰のため、自分の栄光を現して、皆が善い行ないを見て神様を拝みたくなるためにした。 エデンの園で神は二つの制度を定めた→結婚と安息日。 最初の奇跡は婚礼の場でやったほど、結婚制度の重要さを物語っている。

聖書を読んだ事がない人はもちろん、読んだ事がある人の中でもイエスに対する知識が浅薄で、イエスは穏やか、静か、優しい、どんな場合でも譲り合いそうな、いわば「意気地なし」とか「めめしい」やつと考えてる人は少なくない。 30才まで大工の手伝いをやってたイエスは、体が丈夫で、たくましいはず。 ヨハネ2:14〜19にイエスの怒り(!)を描写している。 「細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。 『それをここから持って行け。 私の父の家を商売の家としてはならない』」。 これは普通の人の怒りと違って、神様の栄光と正義のための怒りです。 イエスの生涯の話を読むと、体質的に強い人じゃないと「そんな事ができない」と分かってくるだろう。

ヨハネ3章にイエスは救いの道という事を説いて、自分は「救い主」とはっきり述べた。 「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」。 これは本当の「生まれ変わり」だ。 肉体が死んで、魂が他のものに入る、というような根拠のない話と違う。 人間は生まれ付き罪人です。 悪魔のえじき。 だから1.イエスを信じ 2.バプテスマを受け 3.聖霊に満ちる事をしないなら、永遠の死は必ず訪れる。 聖書の中でたぶん一番有名なところはヨハネ3:16→「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。 続いて17と18節→「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。 信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」。

「イエスは神から出て、救い主だ」と本当に信じる時、とたん、永遠の命に入る。 自分の行動によるもの、何かの修行によって、お金で、等々とは一切関係ない。 大事なのは心だけ。 「ただより高いものはない」ということわざはこの場合にピッタリと当てはまる。 永遠の命は無料、ただ、プレゼントだ。 その代わり、自分の心、考え、体、人生計画などを全部神様にささげなければならない。 自分に命を与えてくれた者は両親と神様。 だから神様が自分の創ったものをいただくのは当然じゃないですか? ただだからといって、「悪をやってもいい」というような考えは間違っている。 本当にイエスを愛するなら、常にイエスに従って、喜ばれるような事を心掛けるでしょう。

生まれ付きの罪人の自分と生まれ変わりの自分との間の闘争は避けられないけど、「ひとりとして滅びることなく」の約束があるから、イエス・キリストを信じる新しい自分の勝利は確実です。 D永遠の命は何だと思う? 得るためにどうしたらいいんでしょう? 永遠に生きたいと思う?

サマリヤ地方は元々イスラエルの一部だった。 でも背教に走って、ユダヤ教の信者に汚れものの扱いを受けた。 ヨハネ4:6「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた」。 イエスはいつも神に栄光を帰す機会や人を導くチャンスを狙っていた。 そして祈ると、それを成し遂げられるパワーがいつも与えられた。 誰でも同じ信仰を持つならできる。 とにかくイエスは疲れて、喉が渇いた。 そこでサマリヤの女の人に「水を飲ませて下さい」と頼んだ。 全宇宙を創った者がたったの水を頼んでいる! こういう糸口で沢山の人が「イエスは救い主」と信じるようになった。

その経緯は4章24節から→「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」。 「女はイエスに言った。 『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています』」(メシヤ=救い主)。 「イエスは言われた。 『あなたと話しているこの私がそれです』」とはっきり自分は救い主であると言った。 そして二日間そこに滞在した。 イエスが地元の人の愛想に付け込んで泊まったわけじゃない。 頼まれたから地上での短い人生の二日間を割いてあげた。 全宇宙創造主が。

イエスの生き方、奇跡などの話を調べたら、あるパターンが目に浮かび上がる。 神様は、押し付けるような事はしない。 求めないともらわない。 とは言え、勝手にこの地球を創ったのは事実。 救い主としてこの世に来たのも一方的です。 体と魂を創ってくれて、太陽を昇らせ、空気を送らせ、雨を降らせ、誰も願ってない事までしてくれ、人間を支えている。 でも神は、人をロボットとして創ってない。 自由の選択権を創られた私たちに与えたので、一人一人が心から願って、イエスを求めないなら、特別な何かをしてくれる事を期待しない方がいいでしょう。

ヨハネの4章の終わりは病人をいやす話で、そして5章は同じような出来事。 目に見える奇跡のほとんどは体を元の状態に戻すようなものだった。 目に見えない奇跡→心の癒し、永遠の命をあげる事、これも人間を元の状態、エデンの園に住んでた時の状態に戻すためです。 イエスは安息日に病人をいやして、「自身を神と等しくして・・・」としたので迫害された。 イエスの弁明はすごい。 「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。 子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」5:22〜23。 最後のレッスンに28〜29節を詳しく取り上げる。 「このことに驚いてはなりません。 墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出てくる時が来ます。 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです」。 E裁きを受けないためどうしたらいい?

約三年半の間、先生として活躍してたイエスの最後の晩さんの様子はマタイ26章に書いてある。 食べて、飲んで、皆の足を洗ってから、イエスは、弟子たちと一緒に公園に行って、「私は悲しみのあまり死ぬほどです。 ここを離れないで、私と一緒に目をさましていなさい」と頼んだ。 ここでイエスの人情を覗く事ができる。 神でありながら、人間、友達に囲まれて、励まされたり、慰めたりしてもらいたかった。 これに奥義がある。 このイエスはヨハネが1章29節に言われた「世の罪を取り除く神の子羊」。 罪と無関係だったイエスが、自分を信じる人の罪を・み〜な・背負って、我々の代わりに罪の報酬、つまり、永遠の死を引き受けた。 マタイ26:41→「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。 心は燃えていても、肉体は弱いのです」とイエスが連れの弟子たちに警告した。 その時の弟子のためだけじゃなく、今これを読んでる私たちのためにもなる。 最初創られた人間、アダムからイエスの時代まで、人間がたいぶ衰弱してきてしまった。 イエスがこう言った時から更に2,000年も経過して、肉体がもっと弱くなってきた現代人にとって、どれほどこの言葉を心に留めて、祈るべきか。 衰弱程度と反比例して祈りましょう!

祭司長たちに引き渡され、ローマの総督に裁かれたあげく、イエスは十字架につけられた。 はりつけという処刑はすごく痛くて、恥を掛けるものだった。 イエスが死んだ時、太陽が暗くなり、神殿の幕が裂かれ、地震が起こり、多くの聖徒がよみがえり、そして「イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた」マタイ27:50。 弟子たちがイエスを亜麻布に包み、新しい墓に納めた。 イエスが本当に死んだ、と多くの証人が自分の目で見た。 イエスの死刑を求めてたユダヤ教のリーダーたちや祭司長たちもそれを見た。 実際に手と足に釘を打ち込んで、脇腹をやりで突き刺したローマの兵士たちもイエスの死を見届けた。

死んで終わっただけだったら、イエスの死は人間が皆(例外は二人と聖書に書いてるけど)控えてる終末の話に過ぎない。 でも違う、全然違う! イエスはよみがえた! 今にも生きている! この出来事を確認した者はイエスの死を確認した人たちだから、この話は真実だと分かる。 光り輝かしい天使が降りて、墓の石を転がしたのを目撃したローマの兵士がビビって死んだように地面に倒れた。 救い主を殺した事がバレないため、リーダーたちはその兵士たちに口止め料を払ったけど、永遠の命が掛かってる出来事→イエス・キリストの誕生、死、とよみがえりを隠す事ができなかった。 よみがえたイエスは、今までよく仕えてくれた二人の女の人に現れ、後で弟子たち皆、40日の間に、500人以上の人に自分を現してから天に昇った。 昇る前に、(昇る様子は最後のレッスンに書いてる)イエスはいろんな事をして、信者が増えた。

マタイ28:18〜20によみがえたイエスが、自分の新しい権威と信者の使命と人間と結んだ約束について言い残してくれた。 「私には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。 そして、父、子、聖霊、の御名によってバプテスマを授け、また、私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。 見よ。 私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。

次ぎのレッスンでこの「命じておいたすべてのこと」を詳しく調べ、イエスと一緒に歩む道の標識に注目しましょう。


第4のレッスン「守るべきルール」を読みたい!
トップに戻る
「聖書講座」のホームページに戻る