レッスン4
守るべきルール

本レッスンの引用するところは出エジプト20章(新改訳119〜120ページ)、マタイ22章(新約40〜42ページ)とヨハネ15章(新約193〜194ページ)。 もちろん、読む前に「聖霊が指導してくれるよう」などと祈りましょう。

第2レッスンに最初創られた人間の守るべきルールを学んだ。 二人とも完璧な者で、喜んで神様の言う通りに従っていた。 でもつい、「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と神様が言った唯一のルールを破ってしまった。 悪魔は悪の創始者という事実も学んだ。 あいつから守るために神様がルールを作って、教えてくれた。 @悪なしのところに善は存在できる?

人間が悪の道を歩み始めるととどまるところを知らない。 人間を創った神様は悔やんで、再出発をするために大洪水を起こし、ノアの家族8人以外の人間を皆おぼれさせた。 時間が経つに連れて、人間は神の質を忘れて、「善は何なのか」さえあまり考えられなくなった。 そこで神は自分の指で、具体的に、石に答えを書いてくれた。

これはよく「モーセの十戒」と呼ばれてるけど、モーセはその受け取り側で、書き記した側は神です。 「神の普遍的の十戒」と呼んでもいいでしょう。 出エジプト20章に書かれてる「十戒」を簡略すると→@他の神々があってはならない。 A偶像を作ってはならない、拝んではならない。 B主の御名をみだりに唱えてはならない。 C六日間働いて、七日目はあなたの神の安息である。 Dあなたの父と母を敬いなさい。 E殺してはならない。 F姦淫してはならない。 G盗んではならない。 H偽りの証言をしてはならない。 I隣人のものを欲しがってはならない。

短くて奥が深い。 十項しかないから当てはまらない場合がいっぱいありそうだけど、実は、どんな場合でもカバーしている。 現代の問題、例えば、「暴力の映画を見てもいい?」とかの場合でも具体的に触れてないけど、ここにその原理の基盤はちゃんと敷かれている。

神様が人間に植え付けた「良心」は私たちを助け、判断を良い方向に導いてくれる役割を果たしている。 でも周りの文化とか生まれた環境とかが意識せずに良心を曲げている。 良心だけに頼れば自分に合ってる合理を作るでしょう。 何が善か、何が悪か、結局十人十色になってしまう。 人間は創られたもので、堕落してから自然に人間同士で比較して、自分は良いか悪いか決めたがる傾向がある。 そこで人間を創った神様が善の基準を書いて、本にして、その本を広く普及させた。 A聖書が手に入らない人はどうなる?

十戒の後半はわりと分かりやすいから、そこから調べてみよう。 「あなたの父と母を敬いなさい」。 東洋人が親を大事にする事実は世界的に有名。 この戒めに伴う約束、「あなたの齢が長くなる」は日本人の寿命を世界一にもたらしたに違いない。 ほとんどの国が十戒の中の第6、7、8、9の戒めを法律の元にして施行している。 これらを守らないと社会秩序がすぐメチャクチャになる。 フランス革命の時にこれらを捨てようという試みがあったけど、盗んでもいい、殺してもいい、という条件無しの社会だったらこのルール(ノールール?)を作った人をさえ、悪から守らなかった。 その試みはすぐ失敗に終わった。 善を守れ、悪をたたきつぶせ。 でないと国が治められない。 個人もそう。

10番目を守ると周りの人の持ち物を気にせず、心安らかに自分の物で満足できる。 友達がブランド品を持ってるからねたみが生じ、友情が薄くなるケース、会社の人が高級街に住んでる事を聞いて、「負けまい」と思って、ローン返済に一生を費やすサラリーマンなどは少なくない。 宣伝はよくこの心理を利用して不満をそそる。 自分の生活を向上するための努力は素晴らしいけれど、物で心に安らぎを与えるのは不可能という事を念頭に置く事も大事です。

十戒の前の方(1〜4)は聖書無しで見出しにくい。 何を礼拝したらいいのか、石?太陽?有名人?お金? とにかく、人は何かを拝みたがる。 神様はその崇拝心を人に与えたからだ。 この心は神によって創られ、人間と動物を区別する役割を果たしている。 原始的な生活を送ってる部族でも、何かを拝む。 現代的な生活を送ってる私たちも、それぞれの対象物が違っても、何かを拝んでいる。 人間の歴史を振り返ってみたら、自然界とか何かの像が礼拝の対象物になる話がいっぱいある。

人間の乱れてる心を見た神様は黙ってはおられない。 自然界と幻と聖書によって自分の存在を示し、訴えている。 悪魔は敵だから、直接災害を起こしたり、人間を通して大自然を破壊させたり、偽幻を送ったり、本の数を増やしたりして、「聖書はただ本の一つにすぎない」と言い、その崇拝心を惑わそうとしている。 アダムがこの世の支配権をサタンに渡してから自然界が狂ってきて、弱肉強食、汚染、破壊、が蔓延してきたのが現状です。 でも自然界に神様の形や質がまだ少し見える。 鋭いとげを持つバラでもきれいな花を咲かす。 神様はさらに預言者に幻などを見せ、後の時代の人のために書き残してくれた。 約3,500年ほど前から1,900年前の間、40人ぐらいの農夫、王様、漁師などに書かせて、そして、それが時代と置かれてた環境が違っても、ちゃんと一貫性を保ってるという事は不思議としか言いようがない。 終始一貫して、変わりのない聖書が拝むべき神は誰か、歩むべき道はどこかを教えてくれる。

その聖書に「他の神々があってはならない」(出エジプト20章3節)が書かれている。 前のレッスンに神様が万物を創った事、それに三体(父、息子のイエス、聖霊)で構成されてる事を学んだ。 表面的に読んだら、「そうか、仏とアラーみたいな神々はだめか」と受け取るかも知れないけど、どんな物や事でも神様より大事に心掛けるのは「だめ」という意味に注目しよう。 仕事、彼氏/彼女、お金、学校、子供、こういうようなもの自体は全然悪くはない。 神様が全部を創って、「よし」としたので、そのもの自体には問題がない。 これは使い道と心の問題。 神様に従うなら首になるとか、家庭状況が悪くなるとか、皆に疎遠されるとかいうような心配を抱いて、恐れて、従わないなら、一番目の戒めを破る事になる。 神様は第一と思ってないなら、悪魔に操られ、心に安らぎを持てなく、永遠の命を得られない。 今、ここで、神様は一番だと決心して、「どんな事があっても従いたい」と誓いましょう:)

2番目の戒めは長い。 神様が創ったものに似た何かを作って、それを拝むなら罪になる。 作品がいくら素晴らしくても、作者の方が称賛に値するのは当然。 ゴッホとかベートーベンの作品は素晴らしいと思っても、やっぱり作った人の方がすごいでしょう。 どうして多くの人は、作者が無名なのに作られた仏像やマリア像や地蔵とかに向かって祈るだろう?

この世のものはみな衰えつつ、いつか必ず滅びる。 だから神様を表そうとして絵か何かを作ったら、そのものが少しずつ腐敗するように、神様も腐敗するという意味になってしまう。 もちろん神様には腐敗や衰えるところはまったくない。 この世で衰えない可能性があるものは一つしかない。 それは神様に従って、永遠の命を持ってる人間です。 でもこんな人間でも、天国に行く前に体は神様によって変えられる(最後のレッスンに詳しく)。

興味深いところ→「主である私は、ねたむ神」にはどういう意味があるかな? 長年一緒に暮らす夫婦の仕草や顔が似てくるように、心や性質が拝むものと似てくる。 せっかく自分が創ったものに逆らわれたので、神様がねたむのは当たり前じゃない? イエスの弟子、母、いや、イエス・キリスト本人の銅像とか絵などに向かって祈るなる罪になる。 Bある人は「銅像に祈ってるのではない。 ただそれをイメージとして、天にいる神様に祈っている」と言うけど、この戒めを破ってると思う? この点ではクリスチャンが、この戒めをキッチリ守ってるイスラム教の人を見習ったらいいだろう。

「主の御名をみだりに唱えてはならない」と3番目の戒めは言う。 西洋と中近東の人が普通の会話によく神様の名前を口にする。 けんかの時、驚いた時、アホなやつにあきれた時、とにかく頻繁に使う。 でも神様の名前を適当以上に使うと逆効果がある。 その名の偉大さを見失って、神様を自分と同じレベルに引き下げる。 日本ででも最近「Oh my God!」が流行ってきて、この戒めに反している。

4番目の戒めは一番長い。 それだけに重要と神様が教えたかったでしょう。 2番目の戒めは神が創った「もの」に対する心得を教えている。 この4番目は神が創った「時間」に対する心得を教えている。 六日間自分の仕事をして、第七日目は神様の日。 これは天体の動きで簡単に測れない期間。 それは神が全部を創って、定めた事を人間に示すためだった。

ほとんどのクリスチャンが毎週この戒めを犯している。 どうして? 日曜日に教会に行くでしょう? そう。 そこに悪魔の奇妙な巧み事があって、本当の神様を忘れさせようとしてる手が見える。 「一週間のうち、ある日を聖としなさい」などと書いてないよね。 「七日目」とはっきり書いてある。 第七日目を守るなら天地を創造した神、イエス・キリストの事をよく考えさせられ、信じるようになる。 人間が他の日を「聖なる日」と言って拝んでも神様は喜ばない。 2番目の戒めと同じく、自分で作ったものとか期間などを拝むなら本当の神を忘れて、人間のわずかしか残ってない本来の神に似るところを失ってしまう。 「安息日を覚えて」と書いてるから、これは・忘れやすい・と裏付けている。

具体的に七日目はいつからいつまで? どう過ごしたら神様を喜ばすの? 話はちょっと最初のレッスンに戻るけど、この地球の最初の一日はいつからいつまでだったっけ? 「夕があり、朝があった。 第一日」。 はいはい、思い出した。 神様から見ると一日は日没で始まり、また日没で終わる。 で、一週間は何曜日で始まる? それははっきり書いてないけど、今の暦の上で土曜日の日没から日曜日の日没までだと計算できる。 だとすると安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までになる。 安息日の主であるイエス・キリストもほぼ2,000年前、毎週この聖なる日をちゃんと守った。 人間が作った、「安息日の間一`以上の歩行は禁止」とかいろんな追加のルールを作った。 でもイエスはそれらを無視して、安息日の間に人を助けてあげたり、いろんな方法で愛を示して、神様に栄光を帰した。 自分の快楽やこの世的な事を安息日の間にしたら、本当の「休息」を味わう事ができない。 C今になって、七日目は何曜日か、どうやって分かる?

以上はいわゆる「モーセの十戒」。 よく「してはならない」とか否定的な言葉遣いをするから「神様は厳しい〜! 私は愛が一番と思うから聖書に書いてる神様を信じられない」と考えてる人は少なくないだろう。 でも、ちょっと親子の関係を考えてみよう。 普通は「愛してるから、これ、それをやってもいい」と言わない。 愛してるから「ストーブを触るな! けんかしたらあかんで!」などと言う。 子供側から見たら「自由を束縛してる!」と思うけど、実は、本人にとって良い。 「自由」=「好き放題」ではなく、選択権があった上で自分にとって一番ベストだという事だろう。 産んでくれた親は子のためにベストを尽くす(普通は)と同じように、皆を創ってくれた神様は、常に私たちのためにベストを尽くしている。 D自由は自分で得るものか、与えられるものか。

イエス・キリストは戒めについて何と言ったかな? イエスは愛を説いて、律法的な考えを廃止したではないですか。 マタイ22章に当時の律法学者の本心が書かれている。 律法は人間の幸せのためではなく、不正を発覚し、罰するものと思われた。 現代でもそういう風な考え方が一般的。 「スピード違反で捕まっちゃった」とつぶやく人は皆の幸せや安全、を重視するより自分の不幸が大事と思っている。 神様の法律のあるところをまねして、法律を作った人間のものが有益で、良いものだったら、原型の十戒はどれほど必要で、皆の幸せを計っているでしょう?!

36節→「先生。 律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」。 先、十戒を1〜4、5〜10と大きく二つのグループに分けた。 1〜4は神様に対して、5〜10は他人に対する。 イエスがここで十戒を二つに凝縮する、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 これがたいせつな第一の戒めです。 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めもそれと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」。

イエスが十戒を二つに凝縮したからといって、「今までの律法は間違ってて、廃止する」と言っていないよね。 廃止するどころか、律法の重要さを強調している。 もちろん本人もキッチリ守っていた。 だからイエスに罪を定める者がいなかった。 非の打ち所がなかった。 人間から見ても、父の神様から見ても。 文字通り戒めを守る人は昔いたし、今でもいるでしょう。 しかし、自分の力では内容まで守れる人は一人もいない。 ここにイエスの完全さの秘訣がある。 つまり、律法の内容は愛という事を理解して、実践した。 イエスを受け入れるなら罪を犯さない力が与えられる:)

愛の創造者であるイエス・キリストは、人間として愛を完全に実践し、聖書にその例をいっぱい残してくれた。 十戒を「ニ戒」に凝縮した後、イエスはもう一つの戒めを作った。 ヨハネ15章の9〜17節に新しい愛についての戒めが載っている。 イエスが友達(弟子)に言った、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです」。 どうやって愛し合う? 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」。

本人は究極の愛の例を自分でやったか。 もちろん。 十字架の上で。 神様は自分がやらない事を人間に要求しない。 十字架に自分をはりつけた兵士のためにもイエスは祈った。 神の存在を否定して、戒めを破って、罪の中でダラダラと生きている現代人でも神に愛されている。

皆を愛したい。 皆に愛されたい。 その方法はただ一つ。 「もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたは私の愛にとどまるのです。 それは、私が私の父の戒めを守って、私の父の愛の中にとどまっているのと同じです」。 私たちが父なる神様と子の神様、イエス・キリストとの間の愛をちょっとでも味わいたいなら、「私の戒めを守る」。 そして、その愛を実践して、イエスを信じる人と本当の愛の交わりができる。

ただ「信じる!」といくら叫んでも愛を実践しないで、戒めを守らないなら、神様の愛が味わえない。 「私があなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたは私の友です」。 神様と友達になって、いよいよ最後のレッスンで天国を目指そう!


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