「福音の解体新書」

(ジャック・セクエイラ著。辻好文訳)
の批評

日本で宣教してる僕は興味深くこの本を読み始めました。 現在セブンス・デー・アドベチストの中に唱えられてる教えは十人十色というか、バラバラです。 特に1950年代の"Questions on Doctrine"が出版されてから、教会全体としては「カルト」と呼ばれないように福音派の日曜日教会寄りになってしまった。 前の総会長ウイルソンが1982年に「聖書は間違ってないと言えない("not inerrant")と言ったほどSDAが堕落してきている。 でもラオデキヤ教会の状態がひどくなっても、この教会だけがまだ神様が自分の教会だと認めている。 大半の人が聖霊を拒んでも、その中にまだ忠実な信者やリーダーがいる。

部分的に見ればこの本は素晴らしい。 でも全体的に見れば、この本はサタンを喜ばすような本である。

最初に気になるところは3ページです→

「・・・聖書とキリスト教に関してすでにお持ちの理解を、ひとまずわきに置いてほしい」

。 イエスは

「律法にはなんとかいてあるか。 あなたはどう読むか」(ルカ10:26)

と言った。 もちろん人間の言い伝えが間違ってたら捨てなければならないけど

(ルカ5:39)

、聖書の理解を捨てると、教えられてる事は正しいかどうか、それを決める基準がなくなるではないでしょうか。 まっ、これは真理に反してないけど、イエローフラグですね。

そして最初の過ちはこの本の中で、そして今SDA教会の中で一番流行ってる過ちである→

「神のアガペーは無条件の愛である」・・・「神が提供なさる救いも無条件のグッドニュースとなる」(p.16)。

 違います。 これは真っ赤なウソです。 こういう教えは20世紀の半ば頃から一般の日曜日教会の間流行ってたもので、1980年代からSDAにも浸透してきました。 訳者がこの教えを支持しようとして217ページに

「本書のような福音理解は、実はSDA教会内には100年以上も前からすでにあったのですが・・・」

と書いてあるけど、証拠がないし、エレン・ホワイトが全然違う事を教えた。 エレン・ホワイトの本を調べたら「無条件」("unconditional")はこういうふうにしか使われていない→

「イエスは無条件な屈服を求めている」("Testimony #26 p.170")。

 実は「無条件な救い」を強い表現で否定してる箇所がある→

「罪は無条件で赦される事はかつてなかったし、未来にも有り得ない」("YI 1901/06/13")。



「無条件」は教えられてないだけではなく、「救いは条件付なものである」という事は聖書に積極的に教えられています。 イエスは

「・・・それを実行しなさい。 そうすれば、いのちを得ます」(ルカ10:28)。

 預言の霊の本

("SG #3 p.226")「・・・神の民の見受けは彼らのへりくだりと服従の継続という条件によって買い取られたものであった」。 「条件に服従したら、誰でもこの競争で勝って、永遠の名誉を得る」("Testimony #26 p.41")。

 他に救いは条件付なものであるところは数多くあります。 

「主は正しい者と悪者を調べる。 その御心は、暴虐を好む者を憎む」(詩篇11:5)

など。

神様が一方的に我々人間を救う計画を立てた事は有り難い事実です。 だからといって、神様の愛は無条件なものではありません。 本当だったら、最終的に人類皆だけじゃなく、サタンまでも救われる事になる! 実際、2年前そういうふうに言われました。 「今でもサタンが悔い改めたら救われる」とSDAの学校に娘さんを通わせてる親から聞きました。 びっくり! イエスの死は何だったの?! でも世の終わりに牧師たちはそういう事を教えると預言されています→

「・・・全人類が改宗する・・・」(キリストとキリストの天使たちとサタンとサタンの天使たちとの間の大闘争 p.225)。



ある人が「救いについて言ってない。ただ神様の「愛」は無条件だと教えてる」と思われる人がいるかも知れない。でも「愛」は無条件でない事は聖書にはっきりと教えられている→

「彼らのすべての悪はギルガルにある。わたしはかしこで彼らを憎んだ。彼らのおこないの悪しきがゆえに、彼らをわが家から追いだし、重ねて愛することをしない。その君たちはみな、反逆者である。」ホセア 9:15。 「高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。」詩篇 5:5。

 過ちが人気であっても、神様の言葉が違う事を言うなら、どちらを信ずべきでしょうか。

他にセクエイラさんの本に真理の道から逸脱してるところがあります。 

ページ54「・・・拒んだ場合に限って、神はその人に罪の責任をお問いになり・・・」。

 違います。 

p59「・・・義認はそれを受け取る人々にとってのみ贈り物となる」。

 その通り。 ただ、これは「無条件」の教えと矛盾しています。 p68#1、これは54ページに書いてる事と矛盾している。 

p108「・・・(聖化)のも、やはり信仰のみによる」。

 違います。 悪に抵抗しないといけないでしょう。 

p118「・・・それを経験していくのは、信仰のみによる」。

 努力しないといけない。 

p130「わたしは救われている。

 

R&H 1890/06/17 "「・・・(クリスチャン)は『私は救われてる』という言葉を絶対口にするべきではない。

 

p143「罪は、人を有罪に定める律法違反の行為である・・・」。

 そう。 だから聖化は律法の行為、遵守である事は明らかです。 

p170「・・・サタンと罪の奴隷として生まれてくるようななった」。

 そうです。 だから「原罪」という教えは正しいです。 

p188「・・・律法は、常にクリスチャン生活の基準となるのであった」。

 そうです。 「基準=条件付」という事は明らかです。 

p189「罪によって天国から締め出されるからではなく・・・」。

 

黙示録21:27「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない・・・」。

 

p191「・・・クリスチャンに限って個人的に適用される」。

 その通り。 これは54ページと130ページに書かれてる事と矛盾してるけど?! 

p206「・・・完全に完成されたあがない・・・」。

 1844年の出来事、イエス・キリストが至聖所に移った事などを否定しています。

確かにこの本に部分的に素晴らしい事が書かれています。 

p108「真理を知る。 真理を信じる。 真理に従う」。

 それに

p118「失敗したり罪を犯したりする度に義認はなくなる(誤解)。

 ハレルヤ! でも全体的に見ればこの本はSDAのリーダーたちが進めてる「福音派教会の仲間入り策」の道具の一つである事は非常に残念に思います。

この本の二つの大きな間違えは:
1.神様の愛は無条件
2.人間は正しい者として生まれる
神様がサタンを天国から追放した事だけで自分の愛は無条件でない事が分かるでしょう。 神様のおきてに従わなければなりません。 そして人間皆はこう経験している→

「罪あるものとして母は私をみごもりました」(詩篇51:5)、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3)。



義認と聖化についてもっともっと勉強する価値があります。 イエス・キリストを信じて、バプテスマ(洗礼)を受ける時、その時、自分の名前が命の書に書かれ「義認」される。 そして日常生活の中でイエス・キリストを愛し、従う

(ヨハネ14:15)

事によって、日々イエスに似てくるようになる(聖化)。 神様に従いましょう。
(^−^)

2003・6・29 ダニエル・ウインターズ
(編集2020・9・18)


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